1968

ハイスクール1968という本を読んだ。かなり色々考えさせられた。

安保闘争や大学封鎖に揺れる時代の転換期、1968年を現筑波大学付属駒場高校を経て東大へと入学したいわゆる「エリート」の学生である筆者が振り返った自伝。


話の中核にあるのは、当時高校生で会った筆者が体験した母校の教室バリケード封鎖事件。

資料も豊富にありメディアへの露出の機会も多い大学紛争に比べると話題の中心にのぼることが少ないが、その時代に確かに存在した高校での紛争を今一度検討しようという魂胆らしい。



この本を読むと、60年代がいかに稀有な時代であったかがわかる。

どんどん新たな文化が入り、実験的・前衛的であることが良しとされた時代。音楽、映画、文学、演劇その他すべてにおいて、その歩みを止めたら死んでしまうとでも言うように突っ走っていた。
そして学生達はそんな時代に後押しされるように、今のままではいけない、何かを変えなければいけないと躍起になっていた。

各地の高校では、生徒の自主性を抑圧する受験制度、服装や頭髪の自由化要求、さらには事勿れ主義に走り都合の悪いことを隠ぺいしようとする教師への不満などが高まっていき、それはやがて卒業式や行事のボイコット、さらには大学紛争を模した学校のバリケード封鎖へと発展していく。



読んでいて感じたのだけど、とにかく60年代という時代の持つ空気、そしてその力強さは戦後のいかなる時期と比べても群を抜いている。それは異常と言っていいと思う。
今の僕と変わらぬ世代の誰もが、時代、そして文化が動いていることを実感していたし、常に世間に対し批評的であった。


これが1970年に入ると激動はまるで嘘のように沈静化してしまい、文化は安易に消費される商品へと成り下がってしまい今に至る。また安保闘争にいわばファッション的に関わっていた多くの人たちも、結局は何事もなく卒業し就職していってしまう。結局、何も変わらなかったのだ。


それでも確かに『68年』は存在した。リアルタイムでそれを経験できなかったことが本当に残念でならない。


果たして21世紀を生きる自分は、彼らのようになれるのだろうか。

それは何も今からバリケードを大学に作ろうだとかそういう意味では無い。彼らのように行動するパワーがあるのかということだ。漫然とした閉塞感を感じながらも、そこに目を瞑り現状をよしとする自分にとてもその力は無い。


この本を読んで残ったのは、生きてもいない時代への感じるはずのないノスタルジーにも似た、憧れだった。






最後に、ネットでこの本のことを調べると筆者はかなり自分の体験談を美化しているらしいことがわかる。それでもなお、当時に息づく力強さを決して損ねるものではないと思うし、貴重な資料として読めました。

・・・でもこれ読んで憧れるって、それはそれで嫌味な奴なのかもしれないっていう